平成27年8月法語

(いち)(じょう)(じっ)(そう)(たま)(きよ)し 

(ころも)(うら)にぞ()けてける

()ひの(のち)にぞ(さと)りぬる 

(むかし)(おや)(うれ)しさよ

8月の法文の歌は、法華経五百弟子受記品第八について詠まれた歌です。大意は、

「一仏乗の教えの明玉(仏性)を、昔の親(久遠の昔の第十六王子の菩薩・今のお釈迦様)から心の奥に埋め込んでもらったことに気づかず、阿羅漢の小さな悟りに満足していた酔い(迷い)がさめた。」

となります。

 この五百弟子受記品では、弁舌で名高い富樓那(ふるな)が、お釈迦様の巧みな方便を駆使する説法を、ほめたたえる場面から始まります。それに対し、お釈迦様は富樓那が過去世においてあまたの如来にお仕えし、正しい教えを身につけて、四種の智慧や菩薩の神通力を獲得したことを述べ、あわせてこれからも説法の第一人者として多くの人々を悟りへ導き、将来は法明如来と呼ばれる如来になるだろうと予言します。

 また、富樓那は本当は菩薩なのに、方便によって声聞の姿をとっていることを、お釈迦様があかします。この設定も興味深いと言わざるを得ません。いわゆる小乗仏教の僧侶のなかにも、実は大乗仏教の菩薩がひそんでいるという意味です。これは当時の僧院内における実状を反映している可能性があります。

 五百弟子受記品で授記される弟子の数は、富樓那と1200人の阿羅漢たちですから合計すると1201人になり、品のタイトルにある「五百」という数と合いません。にもかかわらず、五百弟子受記品という理由は1200人の阿羅漢たちのうち、五百人は「普明」という名を共有する如来になると授記されるからです。

 この五百人の筆頭が阿若陳如(あにゃきょうじんにょ)です。この人物は、お釈迦様が出家した際に、父王から命じられて跡を追い、修行仲間になったとも最初の弟子になったとも伝えられる五人の比丘たちの一人です。

 授記されたことを喜んだ五百人の阿羅漢たちは、法華七喩の一つ「衣珠の譬え」を説きます。この譬え話は、友人からせっかく高価な宝玉をもらっていながら、その存在に気づかず、貧窮の果てにわずかな食物を得て満足している人物が主人公です。この主人公の生きざまに託して、過去世において如来がせっかく菩提心を起こさせてくれたのに、それに気づかず、次元の低い悟りに満足していた阿羅漢たちのありようを、わかりやすく語るのです。