平成27年4月法語

長者(ちょうじゃ)我子(わがこ)(かな)しさに 

瓔珞(ようらく)(ころも)()()てて

(あや)しき姿(すがた)になりてこそ 

(ようや)(ちか)づきたまいしか


4月の法文の歌は、法華経信解品第四について詠まれた歌です。大意は、

「長者(富豪)はわが子かわいさのあまりに、瓔珞(首や胸などにつける装身具)や美しい衣服を脱ぎ棄てて、貧しい者の着る服装に変えて漸くのことでわが子に近づくことができたのでしょうか。」

となります。

この「信解品第四」の「信解」とは、「信じて理解をすすめていくこと」です。お釈迦様の教えを信じる。次にはその教えを理解する。理解することによって、さらに深く信じることができるようになるのです。「信じる」ことと「理解する」こととは、車の両輪のようなもので、経文を信解することによって、それを実践する大いなる力を身につけることができるのです。

この信解品では、仏弟子たちの一人がお釈迦様の教えを理解し、信じた心持ちを、お釈迦様の前に告白する形式で説かれていきます。小乗仏教徒の心に深く染み込んだ虚無的な心情を取り除くことがいかに困難であるかの事実と、虚無思想を少しずつ剥がしていく「お釈迦様の綿密な教育法」とが、法華七喩の2番目の譬え話である『長者窮子の譬喩』の話で展開されます。お釈迦様の教えにより高弟の須菩提らは、低次の虚無思想から高次の法華経の一乗思想を悟ります。

そして、彼らもお釈迦様と等しく仏の座まで達することのできる能力が、生まれながらに自分自身の心身に秘められている真実に感激するのです。

須菩提らの弟子たちは感激と自分の得た悟りの心境を、彼らもまた譬喩話をかりてお釈迦様に述べます。その譬喩が『長者窮子の譬喩』です。長者窮子の譬喩とは、

幼い頃に父親のもとから家出して、20数年もあちこちをさまよいながら貧しい暮らしをしてきた男がいました。
 父親は我が子を捜し求めていましたが、遂に見つからずある町にとどまって生活し、そこで長者となり、豊かな生活を送っていました。
しかし、その長者の心の中から幼いころに別れた息子のことが離れることはありませんでした。
 息子は日々の生活の糧を得るためにあちこちをさまよい続けましたが、いつのまにか父である長者が暮らす町へと足が向いていました。
 息子はその町に入ると、長者の家で生活の糧を得ようと様子を見に行きました。ところが陰から長者の様子をうかがうと、あまりにも高貴であり自分とはかけ離れた様子に驚いてしまい、『ここは私のような者がくるところではない、もう少し身近なところで稼ごう。ぐずぐずしていると無理やり捕まえられて強制的に働かされるかもしれない。』と逃げ出そうとします。
 長者はその男の姿を見ると、一目で家出した息子であることに気づきました。そして使いのものにその男を連れてくるように命じます。
 ところが男の方は、捕まえに来たと思い込み、驚きのあまり気絶してしまいました。
 その姿に落胆した長者は、その男を目を覚まさせて

解き放ち、自由にさせるように命じました。
 男はホッとして、出て行きました。
 長者は息子のことが忘れられず、使いを遣わしてこう話させます。
『いい仕事があるけどやらないか。仕事は便所掃除やゴミ掃除だが他より倍の手当てが出るぞ』
 この話に飛びついた男は、長者の家に住み込みで下働きをはじめます。
 長者は自らも下働きに身になり、男と一緒に仕事をし、さまざまな話をしながらまじめに働き続けるように諭します。
 そして、しばらくして、男がきちんと仕事ができるようになると、長者のすべての財産を保管してある蔵の管理をまかせ出し入れも管理させるようにしました。
 男は長者の財産すべてを把握し、理解しましたがあくまでもそれは長者のものであり、自分には関係のないものだと思っています。
 さらに時がたち、長者は男の心から卑屈さもなくなり、自分の寿命も残り少ないことを知って、多くの人を招き、さらに男も呼んでこのように宣言します。『この子は実は私の子供です。20数年も前に離れ離れになっていましたが、この地で再会したのです。私の財産はすべてこの子のものなのです。』と。男は驚くと共に、長者が時間をかけて自らの心を整え、すべての財産を譲り渡そうと常に願っていてくれた事に気づき、心に大歓喜をおこして父親に感謝するのです

という譬喩話です。

ここで登場とする父とはお釈迦様、息子はお釈迦様の弟子達や我われ衆生のことなのです。父がどのように愛情を注いでも彼はどこまでも卑屈であるということは、彼はお釈迦様の教えとは全く無縁の人間で、救われない存在だ、と耳を傾けない様を示すのです。

息子に対するお釈迦様の説法の方法は、「相手を救うのに相応しい者に成りきって法を説く」といういわゆる対機説法なのです。

 こうして見てくると「信解」とは、他からの教えを信解するというよりも、自分の中に仏性が秘められている真実を信じ、この真実に目覚めるのが、仏性の理解であることがわかります。

合掌